freyu
[言語]副詞
[レベル]
20:frem yuo(動詞の近くに)
[語法]
副詞は一般副詞(leimfreyu)と純副詞(levafreyu)に分かれる。純副詞は法副詞(yunerfreyu)と遊離副詞(dalsfreyu)に分かれる。

・一般副詞

形容詞にelを付ける。開音節ではlのみ。lis:lisel, lav:lavel, amt:amtel, hoomi:hoomil
yogはyoganにしないと「贅沢な」の意味が出ない。「贅沢に」はyoganel。


rensat lisel(小さく言った)
la enat emtel(彼女は悲しく泣いた)
la leevat entel(彼はゆっくりと去った)

感情動詞emtは「悲しくさせる」なので、悲しくなった場合はemtol。なら「悲しく」はemtolelかと思うがそうではなくemtel。
もしemtolelにしないといけないなら、liselもlisolelになり、あらゆる形容詞が~olelになってしまう。
garvも同じ。「苦しめる」が動詞なので、garvolで「苦しめられた」。しかし「苦しんで」をgarvolelにするとlisolelになってしまうのでgarvel。
要するに~olelはなく、~elだけで~olelの意味を表せると考えればよい。
逆に、存在する語形は~anel。yoganelのように。むしろこちらに注意。

語順は下記のとおり。目的語が重いほど副詞が前に出てくる。

動詞+副詞+節:an faxat vienel lent le la siina(彼の好きな人形を強く抱いた)
動詞+副詞+長い句:an faxat vienel lent mem e yuuma lutia(ユーマ=ルティアの丸い人形を強く抱いた)
動詞+短い句+副詞:an faxat lent mem vienel(丸い人形を強く抱いた)
動詞+語+副詞:an faxat lent vienel(人形を強く抱いた)

・動副詞

動詞から副詞を作ることができる。
アルカには本質的に「他動詞と自動詞」「動詞と形容詞」「形容詞と副詞」の違いがなく、内容語は基本的に「体言か用言」「モノかコト」「名詞か動詞」で区別する。
動詞と形容詞に本質的な差がないため、形容詞からだけでなく動詞からも副詞が作れる。

lu piinat la setanel. 彼は彼女を殺すように睨んだ。「殺すように」という能動的な副詞。つまり相手を殺さんばかりの形相でという意味。
lu piinat la setel. 彼は彼女を殺されたように睨んだ。「殺されたように」という受動的な副詞。つまり死体が加害者を恨めしく思って睨むような視線でという意味。

形容詞の場合、lisel(小さくされたように→小さく)のように、受動的な意味で使うケースが無標であり、語形も短い。
しかし動詞の場合、setanelのように能動的な意味で使うケースのほうが多いが、語形は有標である。

このように、動副詞はふつうの形容詞から作る副詞に比べて無標の意味が有標な語形を持つ。
23年までは動副詞という概念がなく、動副詞は能動的な意味が無標で、setelでsetanel(殺すように)を表していた。
ただ23年までもyogan(贅沢な)のような動詞の現在分詞的な形から派生した副詞はyoganelになるかyogelになるかで揺れていた。
23年に至るまで徐々にyogelが「贅沢に」の意味として正しい方向性で固まりつつあったが、ルシアらネイティブの語感に反し、ネイティブらがyoganelやsetanelといった言い方を示し合わせたかのようにしだしたことから大人たちの理論が見直され、この動副詞という概念が生まれるに至った。

・主格動副詞と対格動副詞

夢織の中でpipを使った用例で主格動副詞と対格動副詞の違いが見られる。これはなかなか貴重な例なので挙げておく。
主格動副詞:see lu bik meljien, badik teebe pipanel. すると彼女はメトロノームを掴み、ローブを着た奴に投げて打った。
対格動副詞:son ami tio lot le at rig pipel. だからあれは単に投げられて壊れたものだと思ったんだ。

・法副詞

いわゆる助動詞のこと。動詞の直後に来る。場所を変えることはできない。elは付けられない。
後置系はlax, sen, vil, vanなど。
前置系は否定のen、命令のre、禁止のdenなど。

法副詞といってもすべてが法ではない。
アスペクト系のものはkit, satなど。
テンス系のものはturなど。

・遊離副詞

動詞の直後に来たらelが不必要だが、それ以外の場所だとelが必要なもの。
aluut類、lut類、laiza類、moa、nei、map、halm、aiなど。

・遊離副詞の形容詞的用法

moa(既に)などは日本語では形容詞にならない(「既な」のような言葉はない)ので、文中のどこにいってもelなしで副詞にしていいように感じられる。
la luna moa atuがla luna atu moalになるのは面倒で、la luna atu moaでいいではないかと思う。

しかしmoaは形容詞の意味がある。aluutやlutなどもそうである。例えばlevn moaは既往症という意味になる。日本語に「既な」があれば簡単に理解できそうなものだが。
yapi neiは未接種の予防接種、esk kamilは天気予報の用語で高確率の雨、esk lutはいつも降る雨、lanko laizaは「まだまだ未熟な子供」、bal danteは「作りたての壁」や「ペンキ塗りたての壁」。
何が既に終わっているのか、何がまだまだなのか、それは文脈の中で具体的に決定される。いずれにせよ何かが済んでいたり確率が高かったりするという意味の形容詞になる。

moaらに形容詞用法があるということはmoaらを副詞として使うときにはelを付けないと、形容詞と区別できない。
そこでmoalなどが存在する。

・形容詞にかかる副詞

形容詞にかかる副詞はelがいらない。
tu et lant tinka.
tu et daz rat a ti.

・副詞にかかる副詞

これもelは不要。
例:tyu klitik non ratel rak.
例:lu lef sen taxel tinka. 彼はとても早く走る。

・感動詞と副詞

感動詞にかかる副詞はelがいらない。
sent tinka.

sent tinkalにすると「非常に感謝する」という文語的な印象に。
non sent tyu tiinalの場合はsentが感動詞の解釈はありえないのでtiinalに。これは別に文語的ではない。

・副詞の順序

1:方向:tau ke(買いに行く)など
2:テンス:luna sil(行くだろう)など
3:アスペクト:esk sat(雨が降りそうだ)など
4:ムード(モダリティ):ke lax(行きたい)、ke van(行こう)など
5:ヴォイス:bad yu(叩かれる)など
6:その他:me(もう一度)、em(~になる)、xal(~のままだ)など

無理に副詞をつなげると、こうなる。
miik tau ke sil sat sen yu em an(リンゴが買いに行かれるようになりそうだ)
ただし、実際には、ありえない。

・現実での変遷

古アルカ:heで示した。vivi heで「強く」。he viviの語順の時代も。
制アルカ:動詞の後に形容詞を置くと自動的に副詞。あるいはrax格に回す。
新生:下記

1:raxがseに。動詞の直後という方法も残存。
2:seからs'が分離。
3:動詞の直後は純副詞だけに。
4:3によりseの頻度が増し、摩擦音のsがうるさく感じられる。リーザがseをeに。リーザ、ミリア、メル、ルシア、セレン・リディア・ネットの順で伝播。経緯は下記。

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21年にリーザがsを脱落させ、eとする。それがミリアに伝わり、ミリアからメルとリディアへ。しかしリディアは原理主義でこれを拒む。メルからルシアへ。ルシアからセレンへ。メルが事情を伝える。セレンからネットへ。セレンが知ったときリーザとリディアは出張中だったため確認できず。セレンはseの頻出をうるさいと感じて後押し。リーザがeとしたのは当初seの摩擦音が強くてうるさいためだろうと考えられた。動詞の後に副詞を置けなくなったため、頻度の増したseがうるさく感じられたのだろう。ところがその後古アルカのheが原因ではないかと考えられた。heはhが弱いのでよく脱落してeと発音された。あのころの感覚なのではないか。新しいものに対応しづらくなってきたというと語弊があるが、年長者のリーザから起こった変化ということを考えると納得できる。

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5:1195にeがクミールを通過せず。理由はkenoのeと混同があるため。セレンは事前にこれを予期して下記を執筆。

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<接続詞のeと格詞のeは混同するか>

接続詞が「名詞+e+名詞」で、格詞が「目的語+e+形容詞」の構造を持ち、なおかつこの形容詞が名詞用法も持つとき、混同が起こりうるのではないかと考えた。混同があるなら格詞のeをseに戻したほうがいいのではという議論が起こるはず。そこで検証してみた。

bikat las e diafiolは「奥手な子の手を握った」のか「うぶな感じで手を握った」のか分からないと感じた。本当にそうか検証する。
奥手な子の手を握った→bikat las e diafiolen:属格でないと奥手な子という意味にならない。
うぶな感じで手を握った→bikat las e diafiol:eは格詞。e diafiolで副詞となる。
bikat las diafiol:手自体が奥手という意味になる。比喩的で、手と人のパートニミーである。
ここまでは混同は起こっていない。次の例に行く。

vandat retl e dalhamelでフルパワーなのは自分なのか敵なのか。
フルパワーな敵を→vandat retl dalhamel
フルパワーで敵を→vandat retl e dalhamel
フルパワーな者の敵を→vandat retl e dalhamelen:この場合、攻撃した人、フルパワーな人、フルパワーな人の敵の3人がいることになる。
retl e dalhamelを副詞句でなく接続詞で「フルパワーの敵」と訳せないか。anit et retl e dalhamel(疲れはフルパワーの天敵だ)では接続詞で解釈できる。なら混同が起こる気がする。しかしこの文では逆に「疲れはフルパワーで敵だ」という副詞句の解釈ができないため、結局混同は起きない。

nabat las e harは「赤の手を塗った」のか「赤く手を塗った」のか。
赤い手を(何色かに)塗った→nabat las har
赤く手を塗った→nabat las e har
赤いものの手を塗った→nabat las e haren:例えば赤い服などを着た人の手を何色かに塗った場合など。
nabat las e harを「赤の手を塗った」と解釈できれば混同を作れる気がする。例えばharが人名だったり社名だったりすれば「赤く手を塗った」との混同が起こる。

こう見ていくと、nabat las e harで「赤の手を塗った」と「赤く手を塗った」との間に混同を見いだせる。では次にこれは解釈不可能か否か。
恐らく実際問題これを現場で混同することはないだろう。文脈があるからだ。文脈を考慮すれば混同はたいてい解消される。文脈がなければ解釈が揺れる文は自然言語にも無数に存在するが、それを根拠に単語を変えたりはしない。恐らくeをseに戻すほどの混同力はない。

文語については検討したが、口語は検討できていない。文は遡れるが音は遡れないので、言語では一般に口語のほうが混同を嫌う。口語のほうが一発で通じさせる必要性がある。口語で混同が強ければやはりseに戻すという話になる。
音声面でnabat las e harを見てみると、「赤の手を塗った」は「ミールの手を塗った」と同じ抑揚になるので、lAs e mIirのようにlAs e hArと読まれる。
一方「赤く手を塗った」は「強く叩いた」と同じ抑揚になるので、badat Elen e vienのように、nabat lAs e harと読まれる。
つまりharの音の強さや高さが異なる。口語ではここで区別している。従って口語は文語より混同するどころかむしろ逆と分かった。
日英語でも文では混同するが音では抑揚で区別できる例は多い。「私は好きです」の「は」を強く読むと「私は好きですが、ほかの人はどうでしょうね」という意味になる。ただの主語(ここでは経験者)から限定的な意味に変わっている。この文の場合、「は」に傍点を付けるなどしなければ区別できない。「そういうこと」も「あ、そういうことぉ!」という気付きと、「わかってるでしょ、そう、そういうことよ」という意味の場合では「そういう」の高さが違う。高さによって意味合いが変わる。しかしこれは文では分からない。


・問題は別のところにあるのではないか

結局結論としては
「混同しない。しても文脈で判断できる。判断できなかったとしても非常にレアで、そのために頻度の圧倒的に高いe vienやe filなどをseにして長くするよりも合理的」
ということになる。

しかしこれは正直にいえば恐らくこういう結果になるだろうと長年の経験で予想していた。問題は別のところにある気がしてならなかった。
どちらかというとeに違和感を感じるのは下記が原因ではないか。

bikat las e~まで聞くと、「あぁこれは「の」のeか。いや待てよ。今度からは副詞かも……。eの時点で解釈ができない。次を見なければ」と思う。この待たされる宙ぶらりん感が嫌なのではないか。
las e miirと来れば「あぁ、ofのほうか」と思うし、las e vienと来れば「あ、-lyのほうか」と思う。最後まで聞かないと解釈が安定しなくなったのが嫌なのではないか。ofのほうかなと思って聞いていたら形容詞が来たからここは副詞句で解釈だとなると、e vienはlasでなくその前の動詞にかかる。だから動詞が何だったか脳内で検索して、このe vienを動詞bikatにかけなおさなければならない。これが面倒で、脳が不快なのではないか。

この話をメルに相談したところ、それは現状eが接続詞でデフォルトになっているからにすぎないと言われた。bikat las eまで来たとき、このeがlasにかかるものと決め付けているのは旧来の癖にすぎない。eが接続詞にも格詞にもなるなら始めからeまで聞いた段階ではlasにかけておかない。その後miirが来れば初めてlasにかける。だからかけなおしという感覚は旧来の癖にすぎず、これをもってseに戻すのは合理性がないという。これについては了解した。

また日本語で検討してみたところ、似たようなものがあることに気付いた。
「俺の」まで聞いたとする。この後「手」と来れば「あぁ、ofか」と思う。しかし「言ったことを」が続けば「あぁ、ここは「が」を意味する「の」か」と思う。
これではlas eの話と同じではないか。結局「の」の後を聞くまで「の」の解釈が分からない。eの後を聞くまでeの解釈が分からないのと同じだ。
しかしだからといって日本語は格助詞「の」を廃止するかというとそんなことはない。同じような例は「の」以外にもあるし、英語にもある。となれば、解釈が宙ぶらりんになるからといってseに戻す必要はないということになる。
もし戻すのなら、残る可能性は「解釈が宙ぶらりんでなく不明瞭になるから」だが、これは「現実的に混同することはまずないし、そのリスクよりほとんどの日常的な副詞句を手早く喋れるメリットを取ったほうが良い」という結論ですでに解決している。よってseに戻す必要性はないと結論付けられる。

____

ところがクミールの問題にしていたのはここではなかった。seに戻すのではなく、seそのものが問題だというそもそも論に発展。
seが格詞なら後ろには名詞句しか来れないはず。なのにseだけ形容詞を取る。kaなどとは違って。これは文法的に見て異様とのこと。副詞が動詞にかかるので格詞扱いにしていたが、文法的な振る舞いがおかしい。格詞の「名詞句を取る」という定義に反する。
eに嫌気がさしたことが契機となり、このそもそも論が勃発。クミールがelを提案。s'やeというアクロバットな組み合わせに辟易していたこともあり、比較的ルティア家があっさり受け入れ。セレンも検討し、了承。同1195より実験に入る。

動名詞はelからelsに。良い音を取っているくせに頻度が少ないのでターゲットになったようだ。
メリットは副詞の位置が比較的自由になったこと。
また、クミールはse hanやse ratのような一拍置くリズムが嫌だったという。副詞という1概念なのに発音上は2概念に見える。座りが悪かったそうだ。

なお、上の考察に対しクミールは"la iskat lei e firmas"では「彼は無知に本を読んだ」のか「彼は白紙の本を読んだ」のか区別できないので混同するという例を出し、セレンを論破した。

去年は属格で揺れて今年は副詞で揺れた。
属格で最後の揺れとしていたリディアは不快だったようだ。しかし直すなら早いほうがいい。子供が危ぶまれる。

1196:ネットではsas haitというのだからseの後に形容詞が来てもいいのではという意見があった。それを受けて考えてみた。
sas haitはsas haiten, sas tul haitが根底にあると考えられるから、結局名詞句が後ろにある。形容詞ではない。
でもそれならseだってse kook vienなどと考えられるから、sasと同じだ。sasがイキならseもイキでいいではないか。
という意見も成立するように思えるが、elに流れた今となってはelを抑制する理論でないと流れは変わらないだろう。

こうなった発端は9年前のプロトタイプ制アルカだ。世界一簡単な言語を目指した結果、形副詞が生まれた。
語順で副詞を示し、形容詞だけ覚えればいいようにした。それが使いづらいということでraxやseができ、徐々に今日のelに向けて崩壊していった。
結局9年間引きずったということで、言語の変化はやはり緩やかだと感じた。といっても個人でPCの前だけで作っている言語ならもっと早く舵取りできたし、変えようと思えばその日のうちにでも変えられるのだろう。アルカは動きが重い。
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 

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