動詞+副詞+節:an faxat vienel lent le la siina(彼の好きな人形を強く抱いた) 動詞+副詞+長い句:an faxat vienel lent mem e yuuma lutia(ユーマ=ルティアの丸い人形を強く抱いた) 動詞+短い句+副詞:an faxat lent mem vienel(丸い人形を強く抱いた) 動詞+語+副詞:an faxat lent vienel(人形を強く抱いた)
lu piinat la setanel. 彼は彼女を殺すように睨んだ。「殺すように」という能動的な副詞。つまり相手を殺さんばかりの形相でという意味。 lu piinat la setel. 彼は彼女を殺されたように睨んだ。「殺されたように」という受動的な副詞。つまり死体が加害者を恨めしく思って睨むような視線でという意味。
夢織の中でpipを使った用例で主格動副詞と対格動副詞の違いが見られる。これはなかなか貴重な例なので挙げておく。 主格動副詞:see lu bik meljien, badik teebe pipanel. すると彼女はメトロノームを掴み、ローブを着た奴に投げて打った。 対格動副詞:son ami tio lot le at rig pipel. だからあれは単に投げられて壊れたものだと思ったんだ。
・法副詞
いわゆる助動詞のこと。動詞の直後に来る。場所を変えることはできない。elは付けられない。 後置系はlax, sen, vil, vanなど。 前置系は否定のen、命令のre、禁止のdenなど。
bikat las e diafiolは「奥手な子の手を握った」のか「うぶな感じで手を握った」のか分からないと感じた。本当にそうか検証する。 奥手な子の手を握った→bikat las e diafiolen:属格でないと奥手な子という意味にならない。 うぶな感じで手を握った→bikat las e diafiol:eは格詞。e diafiolで副詞となる。 bikat las diafiol:手自体が奥手という意味になる。比喩的で、手と人のパートニミーである。 ここまでは混同は起こっていない。次の例に行く。
vandat retl e dalhamelでフルパワーなのは自分なのか敵なのか。 フルパワーな敵を→vandat retl dalhamel フルパワーで敵を→vandat retl e dalhamel フルパワーな者の敵を→vandat retl e dalhamelen:この場合、攻撃した人、フルパワーな人、フルパワーな人の敵の3人がいることになる。 retl e dalhamelを副詞句でなく接続詞で「フルパワーの敵」と訳せないか。anit et retl e dalhamel(疲れはフルパワーの天敵だ)では接続詞で解釈できる。なら混同が起こる気がする。しかしこの文では逆に「疲れはフルパワーで敵だ」という副詞句の解釈ができないため、結局混同は起きない。
nabat las e harは「赤の手を塗った」のか「赤く手を塗った」のか。 赤い手を(何色かに)塗った→nabat las har 赤く手を塗った→nabat las e har 赤いものの手を塗った→nabat las e haren:例えば赤い服などを着た人の手を何色かに塗った場合など。 nabat las e harを「赤の手を塗った」と解釈できれば混同を作れる気がする。例えばharが人名だったり社名だったりすれば「赤く手を塗った」との混同が起こる。
こう見ていくと、nabat las e harで「赤の手を塗った」と「赤く手を塗った」との間に混同を見いだせる。では次にこれは解釈不可能か否か。 恐らく実際問題これを現場で混同することはないだろう。文脈があるからだ。文脈を考慮すれば混同はたいてい解消される。文脈がなければ解釈が揺れる文は自然言語にも無数に存在するが、それを根拠に単語を変えたりはしない。恐らくeをseに戻すほどの混同力はない。
文語については検討したが、口語は検討できていない。文は遡れるが音は遡れないので、言語では一般に口語のほうが混同を嫌う。口語のほうが一発で通じさせる必要性がある。口語で混同が強ければやはりseに戻すという話になる。 音声面でnabat las e harを見てみると、「赤の手を塗った」は「ミールの手を塗った」と同じ抑揚になるので、lAs e mIirのようにlAs e hArと読まれる。 一方「赤く手を塗った」は「強く叩いた」と同じ抑揚になるので、badat Elen e vienのように、nabat lAs e harと読まれる。 つまりharの音の強さや高さが異なる。口語ではここで区別している。従って口語は文語より混同するどころかむしろ逆と分かった。 日英語でも文では混同するが音では抑揚で区別できる例は多い。「私は好きです」の「は」を強く読むと「私は好きですが、ほかの人はどうでしょうね」という意味になる。ただの主語(ここでは経験者)から限定的な意味に変わっている。この文の場合、「は」に傍点を付けるなどしなければ区別できない。「そういうこと」も「あ、そういうことぉ!」という気付きと、「わかってるでしょ、そう、そういうことよ」という意味の場合では「そういう」の高さが違う。高さによって意味合いが変わる。しかしこれは文では分からない。
bikat las e~まで聞くと、「あぁこれは「の」のeか。いや待てよ。今度からは副詞かも……。eの時点で解釈ができない。次を見なければ」と思う。この待たされる宙ぶらりん感が嫌なのではないか。 las e miirと来れば「あぁ、ofのほうか」と思うし、las e vienと来れば「あ、-lyのほうか」と思う。最後まで聞かないと解釈が安定しなくなったのが嫌なのではないか。ofのほうかなと思って聞いていたら形容詞が来たからここは副詞句で解釈だとなると、e vienはlasでなくその前の動詞にかかる。だから動詞が何だったか脳内で検索して、このe vienを動詞bikatにかけなおさなければならない。これが面倒で、脳が不快なのではないか。
この話をメルに相談したところ、それは現状eが接続詞でデフォルトになっているからにすぎないと言われた。bikat las eまで来たとき、このeがlasにかかるものと決め付けているのは旧来の癖にすぎない。eが接続詞にも格詞にもなるなら始めからeまで聞いた段階ではlasにかけておかない。その後miirが来れば初めてlasにかける。だからかけなおしという感覚は旧来の癖にすぎず、これをもってseに戻すのは合理性がないという。これについては了解した。
1196:ネットではsas haitというのだからseの後に形容詞が来てもいいのではという意見があった。それを受けて考えてみた。 sas haitはsas haiten, sas tul haitが根底にあると考えられるから、結局名詞句が後ろにある。形容詞ではない。 でもそれならseだってse kook vienなどと考えられるから、sasと同じだ。sasがイキならseもイキでいいではないか。 という意見も成立するように思えるが、elに流れた今となってはelを抑制する理論でないと流れは変わらないだろう。